2009年9月15日火曜日

コーズリレーティッドマーケティング

<定義>
■ 収益の一部がNPOなどへの寄付を通し、社会的課題の解決に役立てるマーケティング活動のこと。

<背景>
■ CSRは、なかなか、企業がwinにならず、企業・消費者・社会の三方良しの状況にはならない
 ― ”従業員を解雇する状況で、何故、アフリカに寄付をするんだ!”

■ 代表取締役の下のCSR・コンプライアンス部ではなく、マーケティング部の中で、「売れる商品の開発行為」の一部として実施されるコーズリレーティッドマーケティング(CRM)が発達。
 - ”何故、インドネシア?何故、1000本の木を植える?”といった、費用対効果の算定が難しい、CSRの状況から、”いやいや、売れるためなんです”といえる。

<特徴>
■ 主に先進国で展開しているのは、成熟した市場のみ消費者が”情緒”に反応するため。

■ 安売りされるコモディティ商品に対して、期間限定で、行われることが多い
 - 1L for 10L 等

■ その商品と、活動がリンクしていることがポイント(ブランディングの一種)

■ どのようなコーズがCRM向きかは、結局は「消費者のアンテナ」に依存する。
 - 環境は、関心が高いけど、自分の行動を改めることで満足してしまう。
 - 子供は、CRM向きである
 - HIVを選ぶ企業は少ない。だからこそ、NPOは消費者を説得して、企業を振り向かせて行くべき。


2009年9月10日木曜日

ローソンはマツキヨと組んでなんかいいことあるのか(続き)

もう少し、ローソンとマツキヨについて考えました。


両者の提携の仕方の違いは、そもそもの業界でのポジショニングの違いに起因しているんじゃないかということです。


業界第一位のセブンイレブンは、これまでも王者の戦略をとってきました。
つまり、王者なので、これまでの勝ち方を崩さずに、シェアを維持していけばよいのです。
従って、「従来のコンビニ」という枠組みの中で、おそらく、「薬」も捉えていると思われ、垂直型の提携はするものの、「コンビニの強みともいえる小売機能は全て自前で揃える」という戦略と思います。



一方で、ローソンは業界第二位であり、あの手この手の「変わった(差別化)」戦略をとらざるをえなかった。(セブンと同じ戦略では、業界一位に負けてしまう)

社長も言っているように(http://www.toyokeizai.net/business/strategy/detail/AC/ed3c9118a4c6e3993b24e3997662c909/)

イノベーションを作らざるをえなかった。ナチュラルローソンとかいろいろやってますよね、確かに。

なので、マツキヨと組んだ理由としては、更なるイノベーションを作り出すために、「コンビニの強みともいえる小売機能に加え、クスリの販売に特化した小売ノウハウを取りこむ」という戦略をとったのではないかと思います。もしかしたらファーマシーローソンとか出来るかもしれないですね。


つまり、差別化を進めるためにも、マツキヨと組まざるを得なかったという仮説です。

2009年9月8日火曜日

知的複眼的思考 を読んで

■ 「問い」を立てるとき、どのくらい具体的な問題の中で「なぜ」を問うのかは重要。抽象化された、「概念」は、新しい現象の発見に寄与する。なぜなら、個別のケースの中で考えている限り、そのケースを越え出る問題の広がりに目が向かないため。
 - 今までは一緒にくくられていた事柄を新しい概念によって区別し、その違いを示す
   ・ ジェンダー
   ・ リストラ
    - 企業での人員の整理や配置換えといった現象は「合理化」という概念でくくられていた。しかし合理化の対象は、主に生産現場の労働者だった。それが、80年代以降、企業組織再編が管理部門にも及ぶようになり、ホワイトカラーの人員配置の変更という事態が生じた。このような新しい現象を、より広範な組織変化の中で生じている現象としてとらえるために「リストラ」という言葉が生まれた
 - ばらばらだったことがらに、新しい共通性を見つけてくくりなおす
   ・ セクハラ
   ・ ニート

■ よくわからないまま、抽象的な概念を使っていることがある。「構造」とか、「個性」とか「権力」とか。定義なしで、大きな意味を持つ言葉を使うと、概念が一人歩きしてしまい、思考をとめるマジックワード化する。これらを禁止することで、微妙な意味の違いに気づく。
 - 『』内は、「個性」を言い換えたものである。「画一的な校則の強制は、『生徒ひとりひとりが自分なりのよいと思っている特長』を伸ばすことを難しくする。」「校則などの集団内の規律も、『ひとりひとりが他のヒトとの違いを尊重しながら自分なりのよいところ』を伸ばして行くためには、重要だ」 の二つの文章で使われる「個性」の意味は微妙に異なるわけだ。
 - 個性とひとくくりにしてしまうと、それにきづかない

■ 概念の一人歩きをなくすためには、「○○化」として問題を捉える。プロセスを見るために、関係を見る。
 - 主語にすると、あたかもそれ自体を動かしがたい実体のようにみなしてしまうため、その影響を受ける立場に身をおいて考えるために述語で考える

■ 問い自体を捉えなおすことで、問題に意味を与えている文脈を見つけ出し、常識から一歩外に出ることが可能になる
 - 何故、それが問題なのか
 - 問題を立てることで、誰が得をするのか、誰が損をするのか
 - その問題が解けたら、どうなるのか

ソビエト帝国の崩壊 を読んで

<階層構造>
■ 共産主義においても、階級は存在した。
 - 生産手段を私有するかどうかで階級を分けるならば、ソ連には階級はなかった
 - しかし、威光/勢力/富 において、一般民衆より多くを享受するエリート階層(数学者、物理学者、技師、一部の政治家 等)は存在した。
  ・お金を持っていても、ものが買えるとは限らないソ連社会において、月給が高いということはあまり意味を為さない。エリート層は、別荘、マンション、リムジン、食料品などが現物給与されていた。さらに、「共産党貴族の店」という店で、行列をする必要もなく、安い値段で、どんな品物でも、いつでも手に入れることが出来た。

■ エリート階層が存在することを社会が「公認しない」ことで、エリート階層にはある種の後ろめたさが残り、責任の自覚を失わせ、ノブレス・オブリッジが生まれない。
 ― 英国貴族は、第二次世界大戦のとき、スピリットファイヤをかって圧倒的に優勢なメッサーシュミットに立ち向かった
 - 徳川時代において、”武士は、百姓町人とは根本的に違った人間であるという意識を叩き込まれたため、その差別意識こそが、倫理的に百姓町人よりはるか上でありつづける源泉となった

■ ソ連は、富・威光・勢力がエリート層に集まっており、革命がおきやすい状況にあった
 - 日本では富は町人に、威光は公家に、勢力は武士にあったため、一揆や打ちこわしがどんなに激しくおきても、幕藩体制はびくともしなかった

<経済構造>
■ 社会において、中心的な富の形態がある。
 - 中世封建の世の中においては、土地であった。土地を持っている人が富んだ人であって、全ての重要な派生的富は、土地によって作り出された。

 - 近代資本主義社会においては、商品であり、特にその交換価値が一般化された貨幣である。(商品には、使用価値と交換価値があり、交換価値が一般化されたものを貨幣と呼ぶ)

 - 社会主義においては、企業においては市場占有率、個人としては商品の嵩であった
   ・ 生産は社会化され、利潤をあげても私有化できないため、いかに国家から目をつけられるよう、規模を大きくするかがポイントだった
   ・ 貨幣が「平等」に配られる以上、貨幣にあまり価値はなく、必ずしも商品と交換できるわけではなくなってしまう。すると、「行列」があったら、とりあえず並ぶ。長い行列が出来ている以上、そこで打っているものは所有する価値があるものに違いない というマインドになる。ソ連では、人々はその商品が必要だから買うのではなく、ともかくも持つ価値があると思うから買うのである。
   ・ さらに、生産もノルマを引き上げないために、生産性が低いままになる。当然、客のニーズを聞く必要もない。従って、技術革新などは極めて起こりづらい。


<感想>
貨幣では買えないものが多ければ多いほど、純粋な資本主義とは離れていく。ホリエモンが言っていたように、意味の分からない、既得権者の意見によって、経済性理論が成り立たないならば、それはむしろ、共産主義に近いのかもしれない。

2009年9月7日月曜日

タブーと思考停止について

僕が小さいころ、その話をすると、親(主に母親)が嫌な顔をして、これ以上話すべきではないんだという気持ちになった話題がいくつか存在する。

・共産主義は悪いものだ
・宗教は出来るだけ、避けるべきだ
・戦争は悪いものだ

「何故、悪いものなのか」「その思考はいつ、どのような経緯で生まれたのか」「今後も、その思考が主流なのか」「世界的にも主流なのか」「反対意見の考えと、論点がかみ合っているか」といった、普通の話題であれば考えうる思考ができなくなる。

もっと怖いことは、「思考ができなくなる」ことが常態化してしまい、心の底からその結論を信じてしまう。

その結論が「真ではない」状況になったとき、その環境から逃げ出すか、気が狂うか、殻に閉じこもって真ではない状況を無視するかしてしまう。つまり、「ブラックスワン」が生まれやすい環境となってしまうわけだ。本当は、「ブラックスワン」ではなく、以前から兆候があったりするのにそれを見過ごしてしまうわけだ。

僕は、これからも、フラットな思考体系を出来るだけ崩したくない。そのためにも、さまざまな地域に行ったり、本を読むことで昔のヒトの考えを知ったりしたい。